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2022年5月 8日 (日)

浦田憲治(日本経済新聞)。直木賞はエンターテインメントの賞だと言われてきた、と言い続ける。

20220508

 文芸記者なら誰しも何らかのかたちで直木賞を支えています。その自覚がある人もいれば、なさそうな人もいますが、客観的に見たら文芸記者は全員、直木賞のしもべです。

 昭和の後期から『日本経済新聞』の文化部で記者をしていた浦田憲治さんも、やっぱりその一人です。

 おそらく興味の中心は純文学にあるんだろうな、と思わせながら、頭のなかの脳髄の底のほうには直木賞の存在がびっしりと繁殖していて、はたから見ると、こういう記者がいたから直木賞は命を長らえてきたんだなあ、と思います。浦田さんの『未完の平成文学史 文芸記者が見た文壇30年』(平成27年/2015年3月・早川書房刊)などは、およそそんなことを印象づける一冊です。

 過去を振り返って直木賞がおもしろいのは、「純文学ではない文学賞」としてずっとやってきたからだ、と言っても過言ではありません。文学賞なのに、純な文学を対象にしない。よく考えると虐げられるべくして生まれたような立ち位置です。そりゃあ、文学だの芸術だのを一等のものだと信じてきちゃった人たちには、こんな文学賞、アホみたいに見えるでしょう。

 『日経』の浦田さんが、直木賞をアホとして扱っていたのか。それはわかりませんが、『未完の平成文学史』の「第十四章 エンターテインメントからの参入」は、文学の芸術性を信奉する文芸記者が、昭和後期以降の出版界の潮流をどう感じていたか、しっかり書き込んだ資料として貴重です。

 たとえば、こんな文章がさらりと出てきます。いまや、こんなこと言っていたら馬鹿にされるような直木賞・芥川賞観でしょうけど、ほんの十数年まえまでは、文芸記者もこんなことを堂々と書いていました。牧歌的なイイ時代に育ったんでしょう、うらやましいことです。

「芥川賞は純文学、直木賞はエンターテインメントとされてきたが、平成に入ってからの受賞者を見ると、バイオレンス小説で売り出した花村萬月が芥川賞を受賞し、私小説に賭けてきた車谷長吉が直木賞を受賞している。文芸誌の中では、「新潮」、「文學界」、「群像」、「すばる」、「文藝」などが純文学で、「小説新潮」、「オール讀物」、「小説現代」、「小説すばる」などがエンターテインメントとされてきたが、直木賞を受賞した高村薫や桐野夏生が「新潮」に小説を発表し始めていて単純な区分けは意味をなさなくなった。」(『未完の平成文学史』より)

 まじかよ、と思います。哀しい気配も漂っています。

 主催者がどう言っているかはともかく、昭和から平成まで直木賞はエンターテインメントに与えられてきたわけじゃありません。もし「直木賞はエンターテインメントに与えられてきた」なんていう一般的な認識ができあがっていたとしたら、それは直木賞を報道してきた文芸ジャーナリズムの責任です。だけど、そこには踏み込まず、すいすいと先に行ってしまう。うーん、ほんとにそうなんだろうか、と文学賞ごときの話題にいちいち立ち止まったりしないのが、文芸記者の流儀なんでしょう。

 浦田さんが文化部で働きはじめる頃までは、直木賞では『文學界』やら『群像』やら、そういった文芸誌からポツポツ候補が選ばれていました。なぜなのか。直木賞の受賞者が、受賞したあとにそういった文芸誌に作品を発表することも普通にありました。なぜなのか。そういうハナシをばっさり端折って、ほら直木賞出のエンタメ作家が純文学に接近しているじゃん、それが平成の新しい文学シーンなのだあ、と言われても、あんまり説得力がありません。

 しかし、文芸記者に説得力など必要でしょうか。答えは否です。

 その時代に生きている作家や評論家や編集者に、じかに話を聞く。自分が体感する文壇の潮流や耳に入ってくる現場の動きを、逃さず知識にする。そういった同時代におこなわれる生身の文学賞やそのかいわいに関しては、取材力のある文芸記者には敬服のひとことです。。浦田さんの輝きも、そこにあります。べつに説得力など、なくたって何の問題もありません。

 直木賞はエンタメ、芥川賞は純文学、という文学賞観は、たしかに昔の文献には腐るほど出てきます。しかし、よくよく見ると、その時代の人たちが、そうじゃないかと感じて語っていた分類にすぎず、両賞の実態に即しているわけではないことは明らかです。

 実態と、一般に言われる印象にはずいぶんと乖離がある、そこに直木賞の背負ってきた哀しみがあります。どうして乖離が生まれたか。ひとくちで言えば、主催の文藝春秋(日本文学振興会)と、両賞を解説したり報じたりしてきた文芸記者たちが共同でつくりあげてきた乖離です。平成27年/2015年に出た浦田さんの『未完の平成文学史』にも、全編にわたってそのことが拭えず刻印されています。その意味で、直木賞史を見るうえでも見逃すことのできない一冊です。

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2022年5月 1日 (日)

足立巻一(新大阪)。記者時代に知り合ったライバル紙の記者が、直木賞受賞。

20220501

 日本の大衆文芸に、最も功績のあった新聞は何か。ひとつだけ挙げよ。……という設問は、まあ愚問かもしれません。ひとつに絞ることに何の意味もないからです。

 しかし、ざーっと歴史を眺めてみて、大衆文芸というか直木賞に強い影響を与えたトップクラスの新聞といえば、何といっても『大阪毎日新聞』(大毎)は外せないでしょう。菊池寛さんとの親密な関係に始まって、『サンデー毎日』は大衆文芸の懸賞を企画。『毎日新聞』大阪本社となってからは、学芸部から山崎豊子さんという直木賞受賞者まで出してしまう。正直いって、直木賞は文藝春秋社じゃなく「大毎」が創設したとしてもおかしくなかった。そのぐらいの歴史を持っています。

 ところで、新聞、新聞といっていますが、新聞に載った小説が直木賞をとることはめったにありません。時代もずいぶん下った1980年代以降になれば、白石一郎さんの『海狼伝』とか、古川薫さんの『漂泊者のアリア』とか、ぽつぽつと単行本化されたあとに受賞する例も出てきましたが、雑誌の掲載作が候補ラインナップの主流だったそれより以前に、新聞の連載小説が直木賞の場に持ち込まれることなんて、異例も異例でした。

 90年近い直木賞の歴史を見ても、単行本になる前の新聞小説が受賞したことは、たった一度しかありません。檀一雄さんの「真説石川五右衛門」です。そして、それを載せた新聞が『新大阪』。毎日新聞社が傍系の夕刊紙として立ち上げた新聞で、はじめのころの上層部のほとんどは『毎日』に籍を置きながら出向のかたちで関わっていた、と言います。そういう意味では、これも直木賞と大毎(毎日新聞大阪)との縁の深さです。

 そうなると『新大阪』の文芸記者を誰か取り上げたいところです。だけど不勉強なもので、よく知らないので、ワタクシでもわかる有名な書き手を、今回の主役にしたいと思います。『新大阪』創設期の語りべにして、学芸記者から学芸部長も務めた足立巻一さんです。

 足立さんによると、昭和21年/1946年2月に創刊した『新大阪』の、売りのひとつが充実した学芸欄だったそうです。

「一面に学芸欄を設けた。創刊号には八木秀次と藤沢桓夫が書き、そのあと一流の筆者が署名原稿を寄せた。志賀直哉、谷崎潤一郎、梅原竜三郎、吉井勇の戦後はじめての座談会を京都で開いたりもした。大新聞も用紙不足で学芸欄など持てなかったころなので、この編集は全国的にインテリ新聞という評判を得た。」(『思想の科学』昭和34年/1959年4月号 足立巻一「現代文化の陰極――ある地方新聞の戦後小史――」より)

 一般に抱く夕刊紙のイメージとはかなり違います。

 ところが好調だったのは、戦後まもない短い期間だけで、昭和24年/1949年12月に新聞用紙の統制がなくなると、『毎日』をはじめとして全国紙がこぞって夕刊も出しはじめます。こうなると、毎日系列の夕刊発行紙、という特異性がなくなり、『毎日』本紙の夕刊と競合しないような路線を模索せざるを得なくなります。檀さんの連載が始まったのはちょうど『新大阪』の部数が減り出した凋落のとき、昭和25年/1950年10月1日からです。

 そのころ足立さんは、京都支局に唯一の記者として派遣されていたので、直接連載には関わっていません。後年、「立川文庫」について書いたり、大衆文芸の源流を深く追った足立さんは、石川五右衛門についても研究し、いかに劇化され、キャラクター化されていったか、みたいな文章をいくつか残しました。そう考えると、檀さんの連載に関わっていれば、もっとこの作品や直木賞についても書き残していてくれたんじゃないか、と思い、残念でなりません。

 足立さんには『夕刊流星号 ある新聞の生涯』という小説があります。『新大阪』の興亡を描いたもので、連載小説の話題もいくつか出てきます。ただ、檀さんの小説のことに触れられたのは、下記のくだりのみです。

「第一面には時代小説が連載されていた。檀一雄が『石川五右衛門』を久しく書きつづけ、それが連載途中で直木賞を受けたり映画になったりして紙面をにぎわせたが、檀が前年の暮れに捕鯨船に乗って南氷洋へ出かけるというので打ち切らねばならず、そのあとは社長の瀬田源吉が『八幡船』をやれといい出し、山岡荘八に頼んだ。」(昭和56年/1981年11月・新潮社刊、足立巻一・著『夕刊流星号 ある新聞の生涯』より)

 連載中の小説が直木賞をとったことで、紙面がどれほどにぎわったのか。何しろ昭和26年/1951年の頃のハナシです。『新大阪』の売上が伸びたとも思えませんし、檀さんがそんなことで『新大阪』に恩を感じたこともなかったでしょう。

 作家に紙面を提供して、それが文学賞をとったとしても、光が当たるのは作家のほうです。発行部数が落ちるいっぽうの弱小新聞には、賞を出したからといって目を向ける人も少なく、褒めたたえようという声もありません。まったく縁の下で直木賞を支える新聞メディアの哀しさが、『新大阪』には凝縮されている、と言っていいでしょう。

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2022年4月24日 (日)

筒井芳太郎(日本経済新聞)。主流とは別のところで独特な文化欄をつくり上げる。

20220424

 新聞は何紙も出ています。何百紙、何千紙かもしれません。正確な数はわかりませんが、その多くが何かしら直木賞と関係している、と言ってもよく、本来は夕刊紙、スポーツ紙、競馬紙、その他専門分野に特化したものも調べなくちゃいけないんでしょう。ただ、とうてい気力が続かないのでバッサリ無視します。

 全国紙だけに絞ってみても、大きなものが5つあります。『読売』『朝日』『毎日』『産経』。この4つは拙ブログのなかでも取り上げて、各社の文芸記者にも触れてきました。しかし、他に一紙、まだ触れていない新聞があります。『日本経済新聞』です。

 いったい『日経』がどういうかたちで直木賞と関わり、支えてきたか。『中外物価新報』から『中外商業新報』、そして『日本経済新聞』と歴史も長く、連載小説や読み物を載せ、他では読めない斬新な文化欄を展開してきた伝統があります。21世紀になって連載小説が直木賞を受賞したりもしていますから、いまとなっては「直木賞との密接度」も他の全国紙とそこまで変わらないと言っていいんでしょう。ただ、その密接の歴史をたどると、やはり『日経』と直木賞の関係性は、独特です。

 昭和27年/1952年、同紙に文化部ができたとき、初代の部長に就いたのが筒井芳太郎さんです。人のふところに飛び込む能力が高く、文筆にも長け、『文藝春秋』の人たちとも仲がよかったらしいんですが、やはり筒井さんが残した大きな仕事といえば、『日経』の朝刊に山本周五郎さんの連載小説を載せたことでしょう。『樅ノ木は残った』です。

 木村久邇典さんの『山本周五郎』上・下(平成12年/2000年3月・アールズ出版刊)を読むと、山本さんがどんな新聞でどんな仕事をしたのか、くわしく書いてあります。山本さん自身が最も親近感を寄せていたのは、『朝日新聞』(『週刊朝日』含む)だったようですが、『日経』もなかなかのものです。若いころ、文学仲間のひとりとして付き合っていたのが、『中外商業新報』の演劇記者だった足立忠さんで、どうやらそこからの縁がつながっていたと思われます。

 いきなりやってきた『日経』の筒井さんが、やすやすと山本さんのお気に入りになったのですから、これはよほどのことでしょう。木村さんもこう書いています。

「白髪瘦身の筒井は、おだやかな相貌の好男子で、話術もたくみであり、たちまちに“気むずかし屋”と評されていた山本の執筆OKを取りつけてしまった。(引用者中略)山本は大作を依頼されると、即答を避けるのを常としたが、筒井の要請には、めずらしくただちに応諾して云った。

「ぼくは文学青年時代の昭和四年、千葉県の浦安市にすんでいた。その当時『中外商業新報』といった『日経』に、なん篇かの童話を描かせてもらって数日の飢えをしのいだ縁故がある。よろしい、描かせてもらいましょう。(引用者後略)」」(『山本周五郎 下巻』「横浜時代 九章 原田甲斐――三十年の歳月を経て」より)

 昭和29年/1954年はじめ頃のことらしいです。

 『日経』と山本さんを結びつけてみせた筒井マジック。連載の題材も題名も、山本さん側が提示したものです。そういう意味では、筒井さんに何ほどの力があったのかはうかがい知れませんけど、こうして「樅ノ木は残った」の連載開始を実現させたことが、思わぬかたちで山本さんと直木賞(の昔の受賞者)を取り持つことになります。宮城県で静かに暮らす大池唯雄さんと、山本さんがここでバチンと対面を果たすのです。

 第8回(昭和13年/1938年下半期)受賞者の大池さんの、直木賞における立ち位置は、ものすごく面白くて重要だと思います。とれば大衆小説の第一線に送り出されて、売れっ子作家になる、みたいな偏った直木賞観から大きく逸れて、浮かれず騒がず、地味に生きつづけた人がいる。それだけで直木賞にまた一面、しぶい性格が付け加わり、いったいこの賞の何が正解なのか、よくわからなくしているからです。山本さんが、大池さんに敬意を抱いて、自ら近づいていったのもむべなるかな、という気がします。

 とりあえず、ここは文芸記者を中心に語る場なので、大池×山本の感動の(?)対面のことには深くは立ち入りません。直木賞の歴史のなかでも日の当たる逸話とは言い難い、こういうハナシが生み出されたのも、『日経』が山本さんに原田甲斐の歴史小説を書いてみようと決意させたからなのは、たしかです。弁舌さわやかなふりをして、しっかりと裏で糸を引く筒井芳太郎。さすが有能な記者は、やることが冴えています。

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2022年4月17日 (日)


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田口哲郎(共同通信)。芥川賞を受賞したとき、直木賞の受賞者記事を書いた文芸記者。

20220417

 およそ50数年まえ、第54回(昭和40年/1965年・下半期)は、直木賞の歴史のなかでも大きな転換となった回です。

 これももう、うちのブログでは何度か書いた話です。もはや「おれひとりがそう思っているだけ」感がハンパないんですけど、直木賞の通史を語る人があまりにいなさすぎて、ほんとに単なるワタクシの思い込みなのかも、よくわかりません。ただ、北上次郎さんの『書評稼業四十年』(令和1年/2019年7月・本の雑誌社刊)を読んでいたら、こんな指摘にぶつかりました。

「日本の現代エンターテインメントは、一九六〇年代後半から一九七〇年にかけて、大きく変化したのである。極端に言えば、これ以前とそれ以後では、がらり一転というくらい変わってしまった印象が強い。新橋遊吉『八百長』(引用者注:第54回直木賞受賞作)と、五木寛之「蒼ざめた馬を見よ」(引用者注:第56回直木賞受賞作)という直木賞受賞作の落差を、個人的な才能の違いや作品の違いにするよりも、そう考えたほうがすっきりする。」(『書評稼業四十年』所収「中間小説誌の時代」より)

 第54回(ごろ)が直木賞の分岐点になったのだ、と言っています。そう考える人が、自分の他にもこの世にいたんだと知れて、ちょっと安心です。

 とまあ、それはそれとして、第54回直木賞。この回は「文芸記者と直木賞」の歴史で見ても、語り落としちゃいけない背景をもっていました。

 受賞者のひとり新橋遊吉さんは、生粋の大阪人で、その当時も大阪に住んでいましたが、共同通信で働いていた文芸記者の田口哲郎さんが、当時たまたま大阪支社にいて、関西圏の直木賞の候補者たちに事前取材していたからです。

 当日の受賞決定後、田口さんはまず新橋さんについての受賞記事を書いて仕事を済ませます。文芸記者で文学賞をとった人は過去に何人かいたはずですが、自分が受賞したその夜に直木賞をとった他の作家の記事をまとめた人など、まずいません。かなり異例だった、と言っていいでしょう。

「受賞決定の知らせを、共同通信大阪支社で聞いた。自分への知らせを待っていたのではなく、受賞作家のプロフィルを書くため、受賞者が決まるのを待っていたという。同支社で文化、芸能を担当する記者なのだ。この日も、直木賞作家となった新橋遊吉さんら三候補に、あらかじめインタビューし、新橋さんの原稿を書くやいなや、こんどは取材される身となった。」(『読売新聞』昭和41年/1966年1月18日「時の人 第五十四回芥川賞受賞が決まった高井有一」より)

 ちなみに「三候補」というのは、新橋さんのほか、直木賞候補の北川荘平さん、芥川賞候補の島京子さんだったようです。

 当日だけじゃありません。事前には本人以外の周辺取材もしていたらしく、この回は『VIKING』の富士正晴さんのところに北川・島二人のことを聞きに行った、と大川公一さんの『竹林の隠者 富士正晴の生涯』(平成11年/1999年6月・影書房刊)に出てきます。富士さんといえば、自身も第52回(昭和39年/1964年・下半期)に直木賞、第53回に芥川賞の候補になっています。そのときも田口さんは事前取材をしていた顔なじみです。

 もしも田口さんが大阪支社にいなかったら。のちに賞をとるような記者でもなかったら、どうなっていたか。富士さんが直木賞なんてとりたくないよ、忙しくなるし、授賞式に東京に行くのもいやだ、と思っていたことも、あるいはオモテに出ずに終わったかもしれません。

 そういう意味では、田口さんが直木賞の歴史を支えた文芸記者だったのは間違いないでしょう。芥川賞の報道のほうで名が残る記者なのかどうかは、ワタクシはよくわかりません。まあ、そっちの賞のことは、いくらでも語れる人がいるでしょうから、おまかせしたいと思います。

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2022年4月10日 (日)

狩野近雄(東京日日新聞、毎日新聞)。第1回直木賞発表のとき、そこにいたかもしれない学芸記者。

20220410

 古今東西、文化部や学芸部に勤めた人はたくさんいます。ただ、そのすべてが文芸記者かというと、そうでもないようです。

 そもそも新聞のなかで、文化・学芸はそれほど主流じゃありません。さらに、文化的なニュース対象といっても、美術もあれば、演劇もあり、芸能もあり、囲碁将棋もあり……分野がいくつも分かれています。そういうなかで、頭のてっぺんから足の先までズブズブの文芸記者と呼べるのは、明治時代から数えても、数十人ぐらいしかいないかもしれません。

 しかも面倒くさいことに、文芸もまた大きく二つに分けられています。純文学とエンターテイメントです。読むほうは、別にどっちがどっちでも読みたきゃ読むだけですが、出版社はそれぞれに担当の部署を分けていたりしますし、これらを扱う新聞社も、おのずと担当記者のテリトリーに境目が出ます。すると、アクタ何とかのことはやたらと詳しいくせに、直木賞を語らせるとボロボロな記者、みたいな人も当然出てくるわけです。まったく、直木賞に縁深い記者、なかなか簡単には見つからないもんですね。

 とまあグチグチ言っていても始まりません。今週も、なるべく直木賞に関わりのありそうな人に、無理やり目を向けたいと思います。

 昭和30年代、『毎日新聞』の学芸部に名物キャラと言われる文芸記者がいました。狩野近雄さんです。

 この狩野さんも、純粋に文芸記者とは呼べません。とにかく行動や関心の範囲が広すぎて、学芸部長をやっただけでなく、出版局長、編集局長、さらには『スポーツニッポン』の社長にまでなって、一介の記者という枠を、はるかに超えちゃっています。しかし、その出発点となった昭和のはじめ、狩野さんは一介の学芸記者でした。ちょうど直木賞ができる頃のことです。

 狩野さんの最後の著書となった『記者とその世界』(昭和52年/1977年10月刊)という本があります。雑誌『ユニオン』連載中に絶筆になったもので、昭和23年/1948年頃までの狩野さんの記者武勇伝、というか回想録です。

 ここで狩野さんは、自身の転換点をはっきりと書いています。ずっと新聞記者をやっていこうと決心したのは、学芸部に配属されたときに千葉亀雄さんと出会ったからなのだと。

「新聞記者を一生の仕事として選ぶことができたのは千葉亀雄先生のおかげである。二年あまりの地方記者生活ののち、私の初めての本社勤務は新設間もない学芸部であった。そこには顧問千葉亀雄、部長阿部真之助、阿部さんの下には木村毅、高田保、大宅壮一といった面々、そして菊池寛がいた。

(引用者中略)

先生は朝早く出社する。自宅で各紙を見てしまっているのでまず東日(東京日日新聞)の地方版にさらっと目を通す。そしてラジオや身の上相談などの投書全部を見て、せっせと選んで添削する。(引用者中略)私はびっくりしてしまった。読者から集まる雑多な手紙――亭主に女ができたとか、昨晩の虎造は良かったとか――それを日本第一級の頭脳が窓口に座って読むのだ。無論読者は知らない。私は、読者との直の窓口に千葉先生を座らせておく新聞というものに感激して、何という大きな新聞だ、この新聞で一生を過そう、という決意を固めた。」(『記者とその世界』「私と新聞」より)

 狩野さんは大学時代に芝居の演出などもしていたらしく、そこら辺りの「芸術」界隈に興味をもつ青年でした。こういう青年に、文芸とジャーナリズムの深い結びつき(ないし、結びつけ方)を行動で示してみせた千葉亀雄。やっぱり偉大だったな、とため息が出てしまいます。狩野さんもそれにヤラれちゃった口のようですし、菊池寛さんや文春の連中が手がけたジャーナリズムも、言ってみれば、ほとんど千葉さんの亜流です。

 亜流かどうかはさておいて、千葉チルドレンの狩野さんが、同じく千葉チルドレンといっていい菊池さんや『文藝春秋』と仲がよく、ときにナアナアの関係を築くのは、自然な流れだったでしょう。その辺りも『東京日日』初代学芸部長、阿部真之助さんの衣鉢を継いだのが狩野さんでした。

 いや、狩野さんのパーソナリティもそうですが、いっぽうの文春に、こういう人たちを大事にする伝統があったのも大きかったと思います。オモテに出ている人(作家とか)だけじゃなくて、それを支えるウラの業界人を、手厚く褒めたたえる伝統です。

 まえに挙げた頼尊清隆さんもそうでした。狩野さんも、記者生活45年を迎えた昭和51年/1976年10月5日に、東京会館で「祝う会」が開かれましたが、「一切合財文芸春秋社の骨折りで催された」(『新聞研究』昭和51年/1976年12月号 狩野近雄「会合記事」)そうです。狩野さんのような記者が、直木賞を支えたきたのはたしかなので、文春がこうやって記者のためにパーティーを開くのは、まったく理にかなっています。文句の言いようがありません。

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2022年4月 3日 (日)

光岡明(熊本日日新聞)。早朝に小説を書き、それから出社して記者生活を送る勤勉な人。

20220403

 かつて直木賞は、現役の新聞記者がとるもの、と相場が決まっていました。

 いや、それはさすがに言いすぎです。現役の新聞記者がとっても珍しくない、そんな時代が数十年あっただけのことなんですけど、うちのブログでもそのなかで文芸や学芸を担当していた現役記者を、何人か取り上げてきました。受賞者では司馬遼太郎さん(第42回・昭和34年/1959年下半期受賞)、豊田穣さん(第64回・昭和45年/1970年下半期受賞)、候補者では木野工さん(第47回・昭和37年/1962年上半期ほか候補)、中田浩作さん(第57回・昭和42年/1967年上半期候補)……。

 最近ではめっきり、現役記者の書いた小説が直木賞の候補になることはなく、もはやこれも、同人雑誌とか新書版のノベルズとか、そういうものと同様に直木賞から消えてゆく文化なんでしょう。さかのぼって見ても、新聞社に籍のある記者が直木賞の候補になったのは、おそらく第86回(昭和56年/1981年下半期)が最後かと思われます。

 直木賞の歴史を半分で区切ると、前半と後半の境はだいたい第80回ごろです。要は、現役記者が直木賞の候補になるとかどうとかいうのは、前半の時期にしか通用しない話題なわけですね。昔のハナシです。

 その第86回、「現役記者の直木賞」という文化の打ち止めになったのが、光岡明さんでした。『熊本日日新聞』の人です。

 直木賞を通じてもなかなか面白い受賞者なので、これまで何度か取り上げたことがあります。光岡さん。この人の書くものは、ワタクシも好きなので、受賞作の『機雷』を含めて未来に読み継がれていってほしいな、と思うんですが、まあ新しい読者に好んで迎え入れられるとも思えません。これからも消えるいっぽうの作家でしょう。しゃあないです。

 と、それはともかく光岡さんの「新聞記者」に対する情熱は、やはり特筆しておかなきゃいけません。

 地方紙における記者の人事がどうなっているのか、くわしくないのでわからないんですが、光岡さんの場合、入社してしばらくは市井の事件や社会問題の取材に駆けまわります。昭和34年/1959年、三井鉱山の三池争議を取材したときの経験は、ずっとのちまで書きたいテーマとして頭に残ったそうです。

 昭和41年/1966年から数年、東京支社で編集部長を務めます。大宅マスコミ塾の五期生として草柳大蔵さんに師事したのはこの頃のことですが、はじめ光岡さんの希望はルポライターとして活躍したい、ということでした。じっさいに何が起きたのか、まずは徹底的に調べ尽くして、それを構築して読み手に届ける。それが光岡さんのやりたかったことで、マスコミ塾で学んだことは新聞記者として血肉になっていきます。文芸のことは、あまり優先度は高くなかったようです。

 ところが、草柳さんから「きみはルポより小説のほうが向いているんじゃないか」と言われたり、『日本談義』の荒木精之さんに「小説、書いてみませんか」と誘われたりするうちに、じゃあちょっとやってみるかと乗り気になって、昭和47年/1972年に「棚鳴り」を発表。昭和50年/1975年に同誌に書いた「卵」が、『文學界』の同人雑誌推薦作となったところから、にわかに有望な熊本の作家として注目を浴びはじめます。

 同じころには、文化・学芸の担当記者としても腰が据わって、そうだよおれは地元熊本の文芸・演劇・美術その他カルチャーを側面から応援して盛り上げていくんだ! と使命感に燃え盛ります。気力みなぎる40代。社内でも話題・伝説の人となっていったそうです。

「新聞社に入社したばかりの三十年近く前、昼休みに光岡さんから喫茶店に誘われた。

身を固くしている新米に、既に俊才の誉れが高かった学芸記者は言った。

「おれは新聞記者とモノ書きの二足のわらじを履いている。いずれ文壇で名を成して見せる」

自信をみなぎらせた表情に、「この人はただ者ではない」と畏敬と憧憬の念を抱いた。

未明の四時ごろに起きて、出勤まで執筆する―光岡さんを知る人々にとってその営為は、当時からの伝説だった。」(『熊本日日新聞』平成16年/2004年12月23日「評伝 光岡明さん 「地域で書き、生きたい」記者気質…とことん取材」より ―署名:文化生活部長・龍神恵介)

 職業作家じゃない人が、苦しい思いをしてまで小説を書きつづける理由は、いろいろあるかと思います。光岡さんも、人には言えない心の鬱屈を抱えていたでしょう。ただ、光岡さんが文壇で成り上がっていく過程には、いまの職場に絶望しているとか、イケすかない上司や部下をいつか見返してやるんだとか、そういう怨念的なものが何ひとつうかがえません。このあたりが、常人にはなかなか感情移入しづらいところですけど、しかし龍神さんが言うように、畏敬と憧憬を抱かされるのもたしかです。

 少なくとも、サラリーマンとして(あるいは人間として)信頼できる、まっとうな人だったことは伝わります。書いたものからもマジメさが匂ってくる、そんな記者であり作家でした。そりゃあ文学賞でも取らないと、売れもしないし話題にもならないのは、よくわかります。

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2022年3月27日 (日)

船山馨(北海タイムス)。文芸記者をしていた時代、すぐそばには芥川賞。

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 考えてみると、昔の作家ってだいたい新聞記者をしています。とくに明治から昭和前期の戦前ぐらいまでは、どいつもこいつも記者上がりばっかりです。

 ……などと、「ばっかり」なんて言ってしまうと、何人ちゅう何人のことなんだ、ちゃんと数えたんだろうな、と詰め寄られそうなので、あくまでド素人が思う印象論にすぎません、と断っておきます。ただ、直木賞ができた昭和9年/1934年前後、「文壇」と呼ばれるものの一角に、新聞記者の群れがけっこう大きな位置を占めていたのは、たしかなようです。

 こないだ野口冨士男さんの『感触的昭和文壇史』(昭和61年/1986年7月・文藝春秋刊)を読んでいたら、昭和10年/1935年前後に文学を志していた作家予備軍として、新聞記者たちの名がたくさん挙がっている文章に出くわしました。

 当時『都新聞』に入った連中の、中村地平さんや北原武夫さんや井上友一郎さんや田宮虎彦さんや澤野久雄さんや、そして野口冨士男さん、みな心の底に作家として世に立ってやるぜ、という野心を燃やしながら、しかしそう簡単には作家一本で食ってはいけない。文壇、経済、出版界、もろもろ世の情勢として新人が出づらいという認識が、直木賞やもうひとつの文学賞ができた昭和9年/1934年ごろにはあったんだ、ということです。

 そして、その野口さんとはのちに「青年芸術派」という同人組織でいっしょになる船山馨さんも、いっとき新聞記者をしていたと言います。新聞のなかでも担当は、学芸や文芸でした。しかも、おれは早く記者稼業をやめて職業作家になってやるんだ、という意思をもっていたことも、野口さんたちと同様です。昭和10年代、この時代の「文芸記者」の典型の一種だった、と思われます。

 まあ、船山さんが在職中に縁があったのは、直木賞ではなく芥川賞のほうです。昭和15年/1940年、船山さんも関わった豊国社発売の同人誌『新創作』は、もとの誌名を『創作』といい、ここから昭和15年/1940年2月に寒川光太郎さんが「密猟者」で芥川賞をとっています。船山さんが『創作』に加わったのは、同郷の寒川さんに誘われたからだそうです(『北海道文学大事典』「船山馨」の項、執筆担当:木原直彦)。

 札幌の『北海タイムス』に勤めていた船山さんが、新聞四社連盟の東京支社勤めの記者として、学生時代以来三たび東京にやってきたのが昭和14年/1939年だそうですから、かなりやる気がみなぎっていた頃でしょう。すぐそばには芥川賞をとったばかりでキラキラしている先輩もいる。文芸記者の仕事はそっちのけで、文学運動、創作活動に励みます。

 いや、ほんとにそっちのけだったかどうなのか。それはわかりません。船山さんが記者だった期間は、長くても4年程度、東京支社の文芸記者としても1~2年の短い勤務だったんですが、とにかく、そのときの経験にあとあと苦しめられた、と語られています。

「作家のなかには、新聞記者の職歴をもった人がかなりいるが、私もそのひとりである。報道記事の文章は、新聞というものの性質上、一にも二にもわかりやすく、簡潔なことが要求される。(引用者中略)こういう文章を長年書きつづけていると、よほど気をつけていても、それが身についてしまうものなので、小説などを書きはじめてみると、意外に、それが邪魔になってくる。私が新聞社にいたころも、記者仲間に文学志望の青年が多かったが、心ある者は、記者生活は文章が荒れるといって戒心していたものであった。

私は学芸記者で終始したので、本物の新聞記者とは言えないが、それでもインタビュー記事や解説物などは、しばしば書かねばならなかった。それも締切り時間にあわせて三十分か一時間で書き流すには、慎重に言葉をえらんではいられないから、いきおい出来合いの言葉や表現にたよることになる。

後年、その記者時代の習慣を自分から追い出すために、私は自分でも思いがけないほど苦労をしなければならなかった。」(昭和53年/1978年1月・構想社刊、船山馨・著『みみずく散歩』所収「平易と平俗の間」より ―初出『週刊言論』昭和43年/1968年10月9日)

 学芸記者を「本物の新聞記者とは言えない」と言っているところも面白いんですが、それはそれとして、記者稼業にかなり力を注いでいなければ、そのときの書きぐせが抜けずに苦労することもないはずです。おそらく船山さん自身、小説でやっていきたいと思いながら、記者の仕事をおろそかにもできず、締め切り30分、1時間の原稿をびゅんびゅん仕上げていたものでしょう。まじめです。

 ともかく昭和16年/1941年、船山さんは思い切って『北海タイムス』を退社。原稿書きだけでやっていこうと、文芸記者から足を洗いました。当時、付き合っていた作家といえば、椎名麟三さんだの「青年芸術派」の連中だのと、純文学臭の強烈な人たちばかりです。うちのブログで取り上げるには、ちょっと路線が違うかな、と思わないでもありませんが、しかしそこは融通無碍な直木賞。やがて船山さんも、直木賞にほど近い存在になっていってしまうのです。

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内藤麻里子(毎日新聞)。2000年代・2010年代の直木賞会見場にいた「二大巨頭」のひとり。

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 先週は、ちょっと強引に大上朝美さん(朝日新聞)を取り上げました。今週はこの流れで、もうひとりワタクシが個人的に思い入れのある「直木賞」文芸記者に行ってみます。『毎日新聞』内藤麻里子さんです。

 いやまあ、思い入れ、というほど深いものじゃありません。思い入れというより、淡い思い出です。

 「直木賞のすべて」を開設したのが平成12年/2000年のことです。以来、ど素人という制約のなかで、できるだけ直木賞のことを知ろうと七転八倒し、いまもしていますが、途中の第144回(平成22年/2010年・下半期)から受賞者の会見が生中継されることになって、一気に「発表とその会見」が身近なものになりました。

 すると当然、あれはどういう場所でどういうふうに行われているんだろう、と興味が沸くわけですから、よーし何とかモグり込んじゃえ、と相当無理して現場に足を運ぶようになります。

 もちろんインターネット越しの中継を見ていればいいだけのハナシで、わざわざその場に行く必要はありません。しかし、たいてい後ろの角度から座った姿しか映されずに、「数多くいる群衆のなかのひとり」としかとらえられない記者たちを、自分なりの視線で注目することができます。取材に向かう、やる気のある顔や淡々とした表情、積極的に手をあげるヤツや、死んだような目で座っているだけのヤツ、などなどその光景を見るのは新鮮でした。これもまた、直木賞を形づくっている重要な一現象です。

 それで、直近の2010年代、あの現場でとくに熱心に質問をしていた記者となると、ぐっと数が絞られます。以前、『読売新聞』川村律文さんについて触れましたけど、『読売』は村田雅幸さんや鵜飼哲夫さんも毎回のように手をあげ、しぼり出したような、ひねり出したような、苦しい質問を飽くことなく続けていました。そしていまひとり、直木賞の受賞者に質問する時間がくると、まずかならずマイクを握っていたのが『毎日新聞』の内藤さんです。

 「無理やりひねり出したような質問」ということでは、他の記者とあまり印象は変わりません。しかし言葉の端々から伝わったのは、「絶対に、わははとお茶を濁して終わるような、おチャラケな会見にはするまい」とする強い意思です。そこが、そのころワタクシが勝手に「直木賞会見の二大巨頭」と呼んでいた鵜飼さんと内藤さんの、いちばんの違いでしょう。

 言葉を変えて言えば、まじめというんでしょうか。正統というんでしょうか。イジ悪く変化球を投げてみたり、はたまたいかにも評論家きどりで批判めいた切り口でせまったり、そういうところが内藤さんにはありません。文芸記者道のどまんなかを邁進して、毎回毎回、受賞決定と選考経過を報じる記事を積み上げる、安心・安定の仕事ぶり。こういう人が、文芸記者の王道というのだろうな、といつも遠目で感嘆しながら眺めていました。

 と同時に、内藤さんが文芸記者として活躍した2000年代、2010年代は、新聞メディアもネットのなかに飲みこまれた時代で、内藤さんによる直木賞に関する記事を、『毎日新聞』をとっていなくてもしばしば目にしました。そういうのを読んでいると、あまりに性格がいいからなのか、ちょっと直木賞に向けるまなざしがヌルいのではないか、と思わなかったわけではありません。

 たとえば、こんな記事があります。当時、ネットに挙がっていたかは覚えていませんが、いかにも内藤麻里子ブシ、といった観があります。直木賞・他一賞を解説したものです。

「Q 新しく選考委員が加わったと聞いたのですが。

A (引用者中略)直木賞は北方謙三、林真理子、宮城谷昌光の3氏が加わり11人になりました。(引用者中略)直木賞の北方さんはミステリー、林さんは恋愛小説、宮城谷さんは歴史小説とそれぞれの分野のベストセラー作家で、最近のミステリーの隆盛に対応できるようにするなど、今までにカバーしきれなかったジャンルの充実を図ったとみられます。いずれにしても両賞ともに年齢的に若い世代が加わり、新しい時代が始まったといえそうです。」(『毎日新聞』平成12年/2000年7月6日「ニュースがわかるQ&A NIE 芥川賞と直木賞 選考委員に若手加え幅広く」より ―署名:学芸部・内藤麻里子)

 選考委員の顔ぶれが多少変わっても、なかなか新しい時代が始まらないのが、直木賞のよさなのでは。とワタクシなどは思うんですけど、こういう賞の動きを否定的にとらえず、前向きに解釈してみせる。やはりプロの文芸記者にはかないませんね。

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2022年3月 6日 (日)

大上朝美(朝日新聞)。けっきょく文学賞は「運」に左右されることを確信した記者。

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 もはや「直木賞×文芸記者」のネタも尽きてきました。書けることがなく、いよいよ困ったので、今週は自分の思い出バナシでお茶を濁したいと思います。安易ですね。すみません。

 平成3年/1991年、まだワタクシが直木賞に興味もなく、平穏に過ごしていた頃のことです。『朝日新聞』で連載された筒井康隆さんの「朝のガスパール」を、毎日欠かさずチェックし、また連載途中に出た『電脳筒井線』(平成4年/1992年1月・朝日新聞社刊)などを読んで楽しんでいたんですけど、読み進めるうちに膨大な量の関連情報がまわりを流れていく、というかなり変わったタイプの小説だったので、これをきっかけに筒井さんにまつわる多くの人たちの名前を知ることになります。そのひとりが、この連載を担当した『朝日新聞』の記者、大上朝美さんです。

 なるほど、新聞連載は学芸部というところに属する社員が担当するんだなあ、と社会の仕組みがよくわからないながらも、おぼろげに思った記憶があります。ワタクシにとって、生まれて初めて知った文芸記者の名前、それが大上さんだったかもしれません。

 ちょうど連載の始まった年、筒井さんの『幾たびもDIARY』(平成3年/1991年9月・中央公論社刊)が出ていたので、これも買って読んだところ、たまたまそこにも大上さんの名前が出てきます。宮本輝さんが朝日新聞に連載した「ドナウの旅人」のために取材旅行に出かけたときのことをまとめた『異国の窓から』(昭和63年/1988年1月・光文社刊)という本のことを紹介するくだりです。

「著者に随行する一行の中で、朝日新聞の女性記者・大上朝美さんが面白い。宮本さんと、この女性が喧嘩ばかりしているのだ。

大阪本社学芸部のこの大上さんは、神戸のわが家にも来たことがある。実は前記した直木賞落選の夜、受賞した場合の取材に来ていたのだった。結果、落選となり、大上さんは悪いと思ったのか、おれにエッセイを頼んで帰った。(引用者中略)

註・この稿が『マリ・クレール』誌に掲載されたあと、当の大上朝美さんから手紙がきて、事実誤認があることを教えていただいた。直木賞落選の夜わが家に来たのは朝日新聞の別の女性記者であり、大上朝美さんが来たのは別件(新聞連載小説の打診)であったらしい。」(『幾たびもDIARY』、「一九八八年」「二月十八日(木)」の項より)

 ほほう、直木賞では選考会の夜、当落のわからない段階で新聞記者が候補者の家にわざわざ取材に行くものなのか。と、直木賞に対する興味がワタクシのなかでむくむくと芽生え、同時に大上さんってどんな仕事をしてきた記者なのか、さかのぼって調べるようになったわけです。……というのは、さすがにウソです。

 ウソはウソなんですけど、よくよく直木賞を追ってみると、平成の一時期、直木賞の受賞記事を大上さんが『朝日』に書いていたのもたしかです。昭和59年/1984年に大上さんが担当した「明るい悩み相談室」から一気に有名になった(?)中島らもさんが、まさかのちのち直木賞の候補者になってしまう、という強運ももっています。

 いや、簡単に「運」とか言っちゃいけませんよね。中島さんの才能に早い段階で気づいた大上さんを褒め称えなきゃいけないんでしょう。

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«千葉亀雄(時事新報、など)。新聞人と文芸人を両立させた社会部長。

 

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